
CHILDISH WAR
2026
この作品は、戦争を動かす側にある幼児性を、人物ではなく空間と物によって表現している。 画面に並ぶのは、ライフル、ミサイル、戦車、戦闘機、戦艦といった兵器のかたちをしたクッションである。しかしそれらは硬質な兵器ではなく、布でできた柔らかい玩具のような存在として置かれている。背景は子ども部屋のように穏やかで、安全で、保護された世界に見える。ここで示されているのは、現実の子どもではなく、子どもじみた精神構造である。 この作品が皮肉っているのは、戦争がしばしば国家や正義や安全保障といった大きな言葉で語られながら、その深層では誇示、独占欲、競争心、意地、被害者意識、強さへの執着といった、きわめて未成熟な感情によって駆動しているのではないか、という点である。つまりここにあるのは「子どもが武器で遊ぶ場面」ではなく、大人たちの幼さが、子ども部屋のような意匠をまとって可視化された風景である。 兵器がクッションになっていることも重要である。 それは暴力がしばしば社会の中でやわらかく包装され、親しみやすく、扱いやすいものとして提示されることの比喩になっている。本来は破壊と死に直結するものが、ここでは抱きしめられそうな物体へと変換されている。この無害化された見た目と、兵器の本来の意味との落差が、戦争を“遊びの延長”のように扱う精神の危うさを際立たせている。 人物が不在であることも、この作品ではむしろ効果的である。 誰もいないのに、そこには確かに「遊びの痕跡」があり、幼い感情だけが空間に残っている。 その不在は、戦争の責任主体がしばしば抽象化され、国家や制度の名のもとで個人の幼稚な欲望が見えにくくなる構造とも重なる。 これは子どもの世界を描いた作品ではない。 子どもじみた感情のまま暴力を正当化する大人たちの精神風景を描いた作品である。